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社内備品とうなぎパイ

アニメとか漫画とかゲームとか映画とか

生きる才能には乏しい

私は単純に思いついたことを言うだけの人間であり演算処理結果がすぐ出てくるロボットみたいな存在なので私の言っていることの中にはそりゃあ人間だから多少感情も入り混じっているけれど「それを言った」ということについて感情が伴うことはまあほとんどない。恐らく専門医から見たらそういった病気の一種として診断されることもあるのかもしれないが、思ったことを吐き出さないと居ても立っても居られない性質だ。なるべくすぐに。
それによって社会的に困ったことは何もないと私自身では思っているから少なくとも私にとっては障害ではないけれど、もし周りの人たちが困ったことがあるんだとしたら謝らなければならないしやっぱり私は障害者なんだなと判断するだろう。


自閉症スペクトラムという概念がある。要は自閉度の高低、知能指数の高低により個人がどこに位置するかを把握するための概念なのだが、おおざっぱに見れば私は健常とアスペルガーのボーダー位置に属するらしい。ふーん、そうだろうなと思った。


突然、自分が自分でなくなったかのように感情が暴走する時がある。何かが時間通り始まらないときとか、予期せぬことで予定が崩れたりとか、作業の途中で水を差されたときとか、何者かの主張に一貫性がまるでないときとか、そういう小さなことでどうしようもなく苛立つことがままあって、その度に自分が傷ついたり、誰かを傷つけたりすることがある。昔からそうだから、自分を律する方法は何となくわかっていて、全てのものごとに対して一切の期待をしないことで、私は自分と周りの人間を守ってきた。私の中でそれは私の「性格」だったので、それ性格というよりは障害の一種やで、と言われてもあんまりピンとこないし、でもまあ世間一般的にそれを障害と呼ぶのなら、別にそれでもいいかとも思うけれど、障害であるからにはやはり解決というか、取り除かなければならないということになるのかというと果たしてそういうわけではないと思うし、障害を克服することって簡単に言えば支障をきたさない程度に日常生活を送ることにあたるんじゃないかとも思うわけで、そうすると私の「こういうところ」は障害ではなくて、やっぱり性格というか、個性にあたるものなのではないかなと思う。


何が言いたいのかいよいよ自分でもわからなくなってきたけれど、どうすれば自分が生きやすくなるのか、他人が生きやすくなるのか、それは自分自身の力でできることなのか、誰かから力を借りないとできないことなのか、誰かから力を借りる場合その誰かは力を貸すことによって生きづらくなるかどうか、また自分が貸す側に立ったとして生きやすいのかどうか、そのへんの調整がうまくいきさえすれば今言われているようないわゆる障害みたいなものはなくなるなんて大層なことは言わないけど少なくなるんじゃないかなって。いや、それが難しいから今こんな感じなんだっていうのはわかるけど。