社内備品とうなぎパイ

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Funny Bunny

私は彼女のことを名前で呼んだことがなかった。ねえ、あのさ、ちょっと、聞いて、いまだいじょうぶ? ありとあらゆる言葉で彼女に呼びかけたけれど、どうしても名前だけは言うことができなかった。それは私の心のせいで、彼女のせいでは一切ない。私は私を守るために、きっと幾度となく彼女を傷つけた。


私は彼女の目をちゃんと見たことがなかった。話したり笑ったり怒ったりいろいろな感情をぶつけてきたけれど、目を見て話すことはいつまで経ってもできなかった。あのとき彼女がどんな顔をしていたのか私は知らない。あのとき彼女が傷ついていたかどうかなんて、私は知らない。


彼女だけではなく、誰に対しても、私は名前を呼ぶことができず、目を見て話すことができなかった。何も悟られたくなかったし、何も知りたくなかった。目の前の人が何を考えているかなんて、そんなことを感じ取るなんて恐ろしいことだった。同時に、自分が考えていることを知られることも同じくらい恐ろしいことだった。私の考えていることが人に知られれば軽蔑されると思ったし、他の人も私と同じようにきっと恐ろしいことを考えているに違いないと思っていた。名前を呼べば心を読まれるだろう、目を見れば頭の中を覗き込まれるだろう。名前を呼ばれたら心が読めるだろう、目を見れば頭の中が見えるだろう。


目は前髪で隠して、耳はヘッドホンで塞いだ。机に向かい絵や文字を紙に書き散らかして毎日を潰した。自分だけの庭で、自分だけにしか見えない何かを育てて、自分だけしかいない空間で過ごしていた。私と私以外の人の間には半透明の壁があって、そのうち何を言われても何をされても何とも思わないようになっていた。私には私を守る壁があるから大丈夫。もう何も気にしなくていいんだよ。私は私に言い聞かせて、私は私の世界のために、私は私以外の人たちの世界のために、この場所から出ないようにしようと思った。


気付いたら私は病院にいて、私の目の前には白い服を着たお医者さんがいた。お医者さんは私の手を取って何かを言っていたけれど、私には何と言っているのかわからなかった。頭にはたくさんコードがつながっていて、部屋はクラシックとピッピッピという小鳥のさえずりみたいな音が混じり合っていた。「眠りなさい」と声がする。「眠りなさい」「すこしのあいだ、ねむりなさい」



夢の中の私はいつだって空を飛んでいた。彼はそれを上昇志向の表れだ、と言って称えた。僕はいつだって落ちる夢ばかり見るんだ。自分に自信がないからね。そんなことないよ。今が幸せだから、それを失うのが怖いんだ。そんなことあるわけないよ。いつだって不安だ。なんで? なんでだろう、漠然と不安なんだよ。理由がわかれば落ちる夢なんてきっと見ない。僕だって飛ぶ夢を見たいよ。今まで見たことないからね。
飛ぶのだって、怖いんだよ。そうなの? 足が地面につかないのはすごく怖い。頭上から足元から、360度あらゆる方向に対しても無防備だし、どこにだって行ける気がして、実はどこに行っても何も変わらない気もするんだ。そんなもんかな。抗えない力に連れて行かれるまま、落ちていく方が楽なのかもしれないよ。前しか見ない、みたいな、そういう夢が見たい。そういうこともあるかな。そういうこともあるよ。



私はいつものように起きて、いつものように顔を洗って、いつものように髪の毛をとかし、いつものように制服を着て、いつものように長い髪を束ね、朝食を食べて、いつものように学校に行って、いつものように教室のドアを開け、いつものように自分の席について、いつものように本を開いて、いつものように時間が過ぎるのを待って、いつものように、いつものように、いつものように、


いつものように、彼女におはようといった。
返事は、なかった。


彼女からも誰からも返事はなかった。半透明の壁の中から声をあげても何も届かないし何も聞こえなかった。そんなことがあるんだ。もうどこかに行ってしまいたい。何回だって空を飛ぶから、無防備な私を誰か撃ち落としてほしい。
でももう空を飛ぶ夢も見られなくなっていた。


ある秋の日の木曜日、夜も深まるころに、クラシックの音楽の中で、私が死んだ。死んだときは、天と地が逆転したような感覚に陥って、体が重たく沈んでいった。今日までよく頑張りました、これで終わりです。これからどうなるんだろうね? どうでもいいけど。もうどうだっていい。無責任な言葉も無関心な人たちも干渉してくる過去も靄がかかった将来も楽しかったことも悲しかったこともさびしかったことも嬉しかったことも何もかも、懐かしいあの日のこと、むせ返るような土の匂いとか、べたつく潮風とか、何もかもが私の体を沈ませていく。もう全部どうでもいい。これで終わりです。今日までよく頑張りました。次はもっとうまくやりましょう。



気付いたら私は病院にいて、私の目の前には白い服を着たお医者さんがいた。お医者さんは私の手を取って、「ストレス性のものだね」と言った。私はそんなことあるもんか、と思った。これはどう考えたって、私自身の心のせいだ。性格がねじ曲がってるんだ。マリオカートレインボーロードみたいに。


私はいつものように起きて、いつものように顔を洗って、いつものように髪の毛をとかし、
伸ばさざるを得なかった長い髪を、ざっくり切った。
私は好きなところに行こうと思った。


夢は叶っていた。